2013年03月16日
願わくば・・・
こんにちは。菊池建設の sugar です。
今日はいつもの「日常の世迷言」をお休みして、3月中旬の今頃の季節になると毎年思い出す一首の和歌を取り上げたいと思います。
「願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」
あまりにも有名な西行法師の和歌です。
西行の家集である「山家集」の花の歌群に入っているこの和歌は、西行が70歳の頃、詠んだものと言われています。
西行といえば、平清盛とは同い年で顔なじみであり、時の関白の藤原頼長も日記に、「あいつはいい男だ」と褒めていたくらいのイケメンだったようです。

<この画像を見る限り、とてもイケメンだったとは思えないが・・・(笑) >
ここで言う「如月」とは、言うまでもなく2月のことですが、この歌が詠まれた頃は旧暦ですから今の季節で言うとちょうど今、つまり3月の中旬から4月の上旬あたりだと思われます。
「花」と言えば、我が国の古典の世界では「桜」を指すのは常識ですし、「望月」とは「満月」のことですよね。
西行は先ほども触れたように、若い頃は男前で腕っぷしもあり、かなり女性との浮名を流したことでも有名ですが、ある時、世をはかなんで出家して僧になったと伝えられています。
実はこの出家の原因となった理由というのがなかなかにすごいんです。
彼は時の上皇(簡単に言うと「引退した元天皇」)であった鳥羽院の中宮(簡単に言うと奥さん)の「侍賢門院璋子」と、こころ通わせる仲だったらしいのですね。
そんな高貴な方とお付き合いしていたとは!
しかも、今で言う不倫じゃんか。
しかし、身分が違いますし(相手は上皇のお妃ですからね!)、そもそも不倫なのですから、いずれにしても叶わぬ恋です。
そこで世を儚んで出家したのだという話しが残っているのです。
いかにもモテ男だった西行らしい逸話です。
西行というとすごく昔の人のように思えますが(というか実際に昔の人なんですが)、俗名の「佐藤 義清(さとう のりきよ)」と言うとなんだか、現在でも生きていそうでなんか親近感が湧きいて来るから不思議です。
で、詠んだ和歌を見るととても人間臭い感じで好感が持てるんですよね。
さて、一方で熱心な仏教徒でもあった西行が詠んだのですから、この歌は一般的には以下のように意訳されることが多いように思います。
「願いが叶うことならば、春真っ盛りの桜の花が咲き誇る中それもできれば美しい満月の夜に、お釈迦様が心安らかに4月8日に入滅した(亡くなった)のと同じように、私もこころ平らかにあの世へ旅立ちたいものだなぁ・・・」と。
これはこれで合っているのかもしれませんが、実はもう一つの説があるんです。
それは、当時70歳だった西行が旅先で出会った35歳くらいの美しい女性に一目惚れして、年甲斐もないが抑えきれない胸の内を告白したところ、「自分は夫を亡くしたばかりの身ですぐには貴方と添い遂げることはできませんが、(夫の喪に服した後の)3年後の今日(旧暦2月の中旬)まで貴方のお気持ちが変わらないのであれば、この先にある阿弥陀仏をまつったお寺のお堂でお待ちしています。」という答えだったのを受けてこの歌を詠んだという説です。
「願いが叶うのであれば、花のように美しい(貴女という)人と春に逢瀬を重ねて死んでみたいものだ・・・・・。貴女の言う如月(旧暦2月)の望月(満月)のころに・・・」というわけです。
つまり、3年後の今日、約束の場に必ず行きます、という返事だったのですね。
そして、3年の月日が過ぎ、約束の日に約束の場で再会した二人は、互いの熱い気持ちを確かめ合い、後の人生を添い遂げたのだといいます。
なんだか人間臭い西行法師にはこちらの説の方がしっくり来ると思うのですが、いかがでしょうか。
あぁなんだか、昔の人ってロマンチックですよねー。
(以上、 sugar こと 相川正也 でした。)
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今日はいつもの「日常の世迷言」をお休みして、3月中旬の今頃の季節になると毎年思い出す一首の和歌を取り上げたいと思います。
「願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」
あまりにも有名な西行法師の和歌です。
西行の家集である「山家集」の花の歌群に入っているこの和歌は、西行が70歳の頃、詠んだものと言われています。
西行といえば、平清盛とは同い年で顔なじみであり、時の関白の藤原頼長も日記に、「あいつはいい男だ」と褒めていたくらいのイケメンだったようです。
<この画像を見る限り、とてもイケメンだったとは思えないが・・・(笑) >
ここで言う「如月」とは、言うまでもなく2月のことですが、この歌が詠まれた頃は旧暦ですから今の季節で言うとちょうど今、つまり3月の中旬から4月の上旬あたりだと思われます。
「花」と言えば、我が国の古典の世界では「桜」を指すのは常識ですし、「望月」とは「満月」のことですよね。
西行は先ほども触れたように、若い頃は男前で腕っぷしもあり、かなり女性との浮名を流したことでも有名ですが、ある時、世をはかなんで出家して僧になったと伝えられています。
実はこの出家の原因となった理由というのがなかなかにすごいんです。
彼は時の上皇(簡単に言うと「引退した元天皇」)であった鳥羽院の中宮(簡単に言うと奥さん)の「侍賢門院璋子」と、こころ通わせる仲だったらしいのですね。
そんな高貴な方とお付き合いしていたとは!
しかも、今で言う不倫じゃんか。
しかし、身分が違いますし(相手は上皇のお妃ですからね!)、そもそも不倫なのですから、いずれにしても叶わぬ恋です。
そこで世を儚んで出家したのだという話しが残っているのです。
いかにもモテ男だった西行らしい逸話です。
西行というとすごく昔の人のように思えますが(というか実際に昔の人なんですが)、俗名の「佐藤 義清(さとう のりきよ)」と言うとなんだか、現在でも生きていそうでなんか親近感が湧きいて来るから不思議です。
で、詠んだ和歌を見るととても人間臭い感じで好感が持てるんですよね。
さて、一方で熱心な仏教徒でもあった西行が詠んだのですから、この歌は一般的には以下のように意訳されることが多いように思います。
「願いが叶うことならば、春真っ盛りの桜の花が咲き誇る中それもできれば美しい満月の夜に、お釈迦様が心安らかに4月8日に入滅した(亡くなった)のと同じように、私もこころ平らかにあの世へ旅立ちたいものだなぁ・・・」と。
これはこれで合っているのかもしれませんが、実はもう一つの説があるんです。
それは、当時70歳だった西行が旅先で出会った35歳くらいの美しい女性に一目惚れして、年甲斐もないが抑えきれない胸の内を告白したところ、「自分は夫を亡くしたばかりの身ですぐには貴方と添い遂げることはできませんが、(夫の喪に服した後の)3年後の今日(旧暦2月の中旬)まで貴方のお気持ちが変わらないのであれば、この先にある阿弥陀仏をまつったお寺のお堂でお待ちしています。」という答えだったのを受けてこの歌を詠んだという説です。
「願いが叶うのであれば、花のように美しい(貴女という)人と春に逢瀬を重ねて死んでみたいものだ・・・・・。貴女の言う如月(旧暦2月)の望月(満月)のころに・・・」というわけです。
つまり、3年後の今日、約束の場に必ず行きます、という返事だったのですね。
そして、3年の月日が過ぎ、約束の日に約束の場で再会した二人は、互いの熱い気持ちを確かめ合い、後の人生を添い遂げたのだといいます。
なんだか人間臭い西行法師にはこちらの説の方がしっくり来ると思うのですが、いかがでしょうか。
あぁなんだか、昔の人ってロマンチックですよねー。
(以上、 sugar こと 相川正也 でした。)
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