2011年11月17日
建築探訪 ~「人類初の建築物とは・・・」
こんにちは!菊池建設の sugar こと、相川正也です。
日本中の建築物の中から「おっ!これはっ!」というモノを紹介する建築探訪の第九回目は、 建築の黎明期にスポットを当てて取り上げてみたいと思います
< 竪穴式住居から高床式建物へ >
そもそも、「建築」という行為は人類史上いつ頃から始まったのか?
それをひも解いてみることは、「建築」を考えて行く上で必ず一度は確認すべきことではないで しょうか?
人類が「建築」という行為を行ったのは、今からおよそ2万年前の後期石器時代にまでさかのぼるそうです。
ホモ・サピエンスが闊歩していた頃の話しです。
当時の建物は、地面を掘り下げた竪穴(たてあな)をそのまま土間床とし、地面にじかに柱を 立て、土や草で屋根を葺いただけの簡単なものでした。
これがいわゆる「竪穴式住居」です。

< 竪穴式住居 >

< 竪穴式住居の構造 >
これが少し進歩してくると、土間床ではなく、室内に床を持つ高床式の建物が登場してきます。
これは縄文時代中期に入ってからで、柱の途中に床を張る為に建築的な工夫が施されました。
特筆すべきは「貫(ぬき)」が発案されたことでしょう。
この「貫」とは、柱に横穴を貫通させ、水平に部材を差し込むことで柱を固定する技術のことです。
今まで「貫」は中国から鎌倉時代に渡って来たと思われていました。
ところが、高床用に水平材を差し渡すために、「貫」の手法を使ったと思われる建物の遺跡が 発掘されたのです。
この「貫」という手法の発見は、日本の建築技術を大きく飛躍させる画期的なできごとでした。

< 高床式建物 >
この「高床式建物」が広く普及するのは稲作が広まった弥生時代です。
リスクの大きい狩猟に頼っていたライフスタイルから農耕という安定した生活スタイルに移っていくのに伴い、収穫した穀物を保管する必要が出て来たのです。
それにこの「高床式建物」はまさにうってつけだったわけです。
穀物を湿気から守るため、建物全体を柱で高く持ち上げ、切妻の茅葺き(かやぶき)の屋根を 掛けるというのが「高床式建物」の大きな特徴です。。
これは湿気を嫌う穀物の保存方法という観点からは、四季があり雨の多い日本の気候の下では、非常に理にかなった方法であり、沖縄や八丈島など南方の島々ではごく最近でもこの「高床式建物」が倉庫として使われていました。
また、東南アジアやオセアニアの島々でもこれとよく似た建物が存在していたことが判っています。
「高床式建物」のもう一つの大きな特徴は、害獣から守るため、出入り口には取り外し可能な梯子を用意して、柱が床と接する部分には「ネズミ返し」が付いているのは皆さんもよくご存じだと思います。

< ネズミ返し >
またその後、高床式建物は、当時の有力者の住居として富と権力を象徴するシンボルとして、銅鐸(どうたく)や銅鏡にも描かれるようになりました。
その当時の高床式建物はさすがに現代には現存していませんが、その子孫とも言える建物は今でも目にすることができます。
「伊勢神宮」がそれで、古代建築様式を今に伝えているのです。
巫女や当時の権力者が、地面よりかなり高い床を持つこの高床式建物の上から庶民を見下ろして祭事や号令を出していた様子が想像できますね。

< 弥生時代の村落の様子 >
そして、この「高床式建物」が世界にどのように分布しているか、またその時代的な考証から鑑み、世界中に稲作がどのように伝播して行ったかを探る研究もされています。
さらに一歩進めて考えて、「高床式建物」が伝播して行ったルートがイコール稲作が伝播して行ったルートだと仮定すると、もしかしたら、それがそのまま「日本人はどこから来たのか?」の答えなのかもしれませんね。
うーん、ここにも歴史のロマンがありました。
日本中の建築物の中から「おっ!これはっ!」というモノを紹介する建築探訪の第九回目は、 建築の黎明期にスポットを当てて取り上げてみたいと思います
< 竪穴式住居から高床式建物へ >
そもそも、「建築」という行為は人類史上いつ頃から始まったのか?
それをひも解いてみることは、「建築」を考えて行く上で必ず一度は確認すべきことではないで しょうか?
人類が「建築」という行為を行ったのは、今からおよそ2万年前の後期石器時代にまでさかのぼるそうです。
ホモ・サピエンスが闊歩していた頃の話しです。
当時の建物は、地面を掘り下げた竪穴(たてあな)をそのまま土間床とし、地面にじかに柱を 立て、土や草で屋根を葺いただけの簡単なものでした。
これがいわゆる「竪穴式住居」です。

< 竪穴式住居 >

< 竪穴式住居の構造 >
これが少し進歩してくると、土間床ではなく、室内に床を持つ高床式の建物が登場してきます。
これは縄文時代中期に入ってからで、柱の途中に床を張る為に建築的な工夫が施されました。
特筆すべきは「貫(ぬき)」が発案されたことでしょう。
この「貫」とは、柱に横穴を貫通させ、水平に部材を差し込むことで柱を固定する技術のことです。
今まで「貫」は中国から鎌倉時代に渡って来たと思われていました。
ところが、高床用に水平材を差し渡すために、「貫」の手法を使ったと思われる建物の遺跡が 発掘されたのです。
この「貫」という手法の発見は、日本の建築技術を大きく飛躍させる画期的なできごとでした。

< 高床式建物 >
この「高床式建物」が広く普及するのは稲作が広まった弥生時代です。
リスクの大きい狩猟に頼っていたライフスタイルから農耕という安定した生活スタイルに移っていくのに伴い、収穫した穀物を保管する必要が出て来たのです。
それにこの「高床式建物」はまさにうってつけだったわけです。
穀物を湿気から守るため、建物全体を柱で高く持ち上げ、切妻の茅葺き(かやぶき)の屋根を 掛けるというのが「高床式建物」の大きな特徴です。。
これは湿気を嫌う穀物の保存方法という観点からは、四季があり雨の多い日本の気候の下では、非常に理にかなった方法であり、沖縄や八丈島など南方の島々ではごく最近でもこの「高床式建物」が倉庫として使われていました。
また、東南アジアやオセアニアの島々でもこれとよく似た建物が存在していたことが判っています。
「高床式建物」のもう一つの大きな特徴は、害獣から守るため、出入り口には取り外し可能な梯子を用意して、柱が床と接する部分には「ネズミ返し」が付いているのは皆さんもよくご存じだと思います。

< ネズミ返し >
またその後、高床式建物は、当時の有力者の住居として富と権力を象徴するシンボルとして、銅鐸(どうたく)や銅鏡にも描かれるようになりました。
その当時の高床式建物はさすがに現代には現存していませんが、その子孫とも言える建物は今でも目にすることができます。
「伊勢神宮」がそれで、古代建築様式を今に伝えているのです。
巫女や当時の権力者が、地面よりかなり高い床を持つこの高床式建物の上から庶民を見下ろして祭事や号令を出していた様子が想像できますね。

< 弥生時代の村落の様子 >
そして、この「高床式建物」が世界にどのように分布しているか、またその時代的な考証から鑑み、世界中に稲作がどのように伝播して行ったかを探る研究もされています。
さらに一歩進めて考えて、「高床式建物」が伝播して行ったルートがイコール稲作が伝播して行ったルートだと仮定すると、もしかしたら、それがそのまま「日本人はどこから来たのか?」の答えなのかもしれませんね。
うーん、ここにも歴史のロマンがありました。