2011年10月29日
建築探訪 ~「重 源(ちょうげん)」
こんにちは!菊池建設の sugar こと、相川正也です。
日本中の建築物の中から「おっ!これはっ!」というモノを紹介する建築探訪の第八回目は、昨日に引き続き、奈良の東大寺(とうだいじ)を再興した「重源」にスポットを当てて取り上げてみたいと思います。
< 時代の先駆者 建築家「重源」 >
前回お話ししたように「重源(ちょうげん)」が宋から日本に持ち込んだ新しい建築様式である「大仏様(だいぶつよう=だいぶつさまではないですよ)」は、中国の福建省周辺の建物に今も名残りをとどめています。
東大寺の再建が重源の手に委ねられたのは、彼がこの地を訪れて実際に見聞したからだとする説も有力です。
東大寺の建築物と福建省の建物を比較してみると、福建省では建物を支える「貫(ぬき)」や「肘木(ひじき)」の断面が多様なのに対して、東大寺では同じ断面の部材が使われています。
これは工事に先駆けて行われたであろう「木取り作業」の能率化を図ったためだと思われます。
巨大な大仏殿をいかに手際よく、無駄な材料を出さずに造れるか、よくよく考慮した上で、材料を統一化することによって、重源は合理的に建立しようとしたのでしょう。
このことからも、重源という人物は当時のこの新しい建築知識および技法についてかなり長けていたと思われますし、コスト削減という意味合いからも歴史上重要な意味合いを持っています。
まさに建築のプロだったのでしょうね。

< 重 源 >
「大仏様(だいぶつよう)」の建築と言えば、この東大寺のみと思われがちですが、東大寺の荘園であった「播磨国大部荘(はりまのくにおおべのしょう)」に建立された「浄土寺浄土堂」(現在の兵庫県小野市)にも見られます。
重源が東大寺再建途中に建立したお寺なのです。


< 国宝 浄土寺 浄土堂 >
しかし、重源が1206年に亡くなった後は、この「大仏様」の建築は見られなくなります。
これは、日本古来の伝統的な建築様式である「和様(わよう)」との違いがあまりに大き過ぎたため、日本人の繊細な造形的な嗜好に受け入れられなかったからだと推測されています。
やはり豪放磊落な造りというのは、日本人の感性にはそぐわなかったということでしょうか。
このように、海外から新しい建築様式が入って来て普及すると思いきや、日本人の感性というフィルターによって、取捨選択が行われ、残るものだけが残っていくわけです。
もちろん、この「大仏様(だいぶつよう)」の大きな特徴である「貫(ぬき)」が、その後の日本の建築に多用されたように、部分的には取り入れて残していく器用さや柔軟さを日本人は備えていたので、より良いものが残って行ったのだと思います。
昔から日本人は、新しいものを取り入れては、自分たちに合うように再構築して行くという感性に優れていたと言えますね。
最後に、この鎌倉時代に活躍した「重源」にご興味を持たれた方は、こちらの本をオススメします。
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163296807
日本中の建築物の中から「おっ!これはっ!」というモノを紹介する建築探訪の第八回目は、昨日に引き続き、奈良の東大寺(とうだいじ)を再興した「重源」にスポットを当てて取り上げてみたいと思います。
< 時代の先駆者 建築家「重源」 >
前回お話ししたように「重源(ちょうげん)」が宋から日本に持ち込んだ新しい建築様式である「大仏様(だいぶつよう=だいぶつさまではないですよ)」は、中国の福建省周辺の建物に今も名残りをとどめています。
東大寺の再建が重源の手に委ねられたのは、彼がこの地を訪れて実際に見聞したからだとする説も有力です。
東大寺の建築物と福建省の建物を比較してみると、福建省では建物を支える「貫(ぬき)」や「肘木(ひじき)」の断面が多様なのに対して、東大寺では同じ断面の部材が使われています。
これは工事に先駆けて行われたであろう「木取り作業」の能率化を図ったためだと思われます。
巨大な大仏殿をいかに手際よく、無駄な材料を出さずに造れるか、よくよく考慮した上で、材料を統一化することによって、重源は合理的に建立しようとしたのでしょう。
このことからも、重源という人物は当時のこの新しい建築知識および技法についてかなり長けていたと思われますし、コスト削減という意味合いからも歴史上重要な意味合いを持っています。
まさに建築のプロだったのでしょうね。

< 重 源 >
「大仏様(だいぶつよう)」の建築と言えば、この東大寺のみと思われがちですが、東大寺の荘園であった「播磨国大部荘(はりまのくにおおべのしょう)」に建立された「浄土寺浄土堂」(現在の兵庫県小野市)にも見られます。
重源が東大寺再建途中に建立したお寺なのです。


< 国宝 浄土寺 浄土堂 >
しかし、重源が1206年に亡くなった後は、この「大仏様」の建築は見られなくなります。
これは、日本古来の伝統的な建築様式である「和様(わよう)」との違いがあまりに大き過ぎたため、日本人の繊細な造形的な嗜好に受け入れられなかったからだと推測されています。
やはり豪放磊落な造りというのは、日本人の感性にはそぐわなかったということでしょうか。
このように、海外から新しい建築様式が入って来て普及すると思いきや、日本人の感性というフィルターによって、取捨選択が行われ、残るものだけが残っていくわけです。
もちろん、この「大仏様(だいぶつよう)」の大きな特徴である「貫(ぬき)」が、その後の日本の建築に多用されたように、部分的には取り入れて残していく器用さや柔軟さを日本人は備えていたので、より良いものが残って行ったのだと思います。
昔から日本人は、新しいものを取り入れては、自分たちに合うように再構築して行くという感性に優れていたと言えますね。
最後に、この鎌倉時代に活躍した「重源」にご興味を持たれた方は、こちらの本をオススメします。
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163296807
Posted by スタッフブログ『ひのき同好会』 at 15:44│Comments(0)
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