2011年10月21日
建築探訪 ~「正倉院(しょうそういん)」
こんにちは!菊池建設の sugar こと、相川正也です。
日本中の建築物の中から「おっ!これはっ!」というモノを紹介する建築探訪の第六回目は、 奈良の東大寺(とうだいじ)の「正倉院(しょうそういん)」を取り上げてみたいと思います。
< 1255年間、宝物を守り続けた「正倉院」 >
「正倉院」は、聖武天皇の遺愛品を収蔵する建物であり、「校倉造り(あぜくらづくり)」の構造が、高温多湿の日本の気候から遺愛品を守って来たとされて来ました。
しかし、近年それを覆す説が有力になっていることをあなたはご存知でしたか?
それについては後述しますね。
さて、奈良時代の寺院の多くは、寺宝を保管しておく多くの「正倉(しょうそう)」を持っており、幾棟かの正倉の集まる一郭を「正倉院」と呼びました。
しかし、今や奈良の東大寺の「正倉院」しか現存せず、正倉院と言えばこの東大寺の「正倉院」を指すというように、固有名詞化しているのです。

< 東大寺 正倉院 外観 >
現存の「正倉院」は、東大寺仏殿の北西にあり、敷地のほぼ中央の南北に三倉一棟式の正倉が建っています。
日本で造られた最大の木造倉庫建築です。
正倉が東大寺にだけ現存するのは、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛品を東大寺に献納し、天皇の勅命によって封印して、みだりに開閉することを許さなかったからです。
なお、当初は勅命されたのは北倉だけで、三倉とも勅封倉となったのは明治時代になってからだと伝えられています。
「正倉院」の建築年代は明らかではないのですが、聖武天皇遺愛品が献納された756年ころと考えられています。
つまり、1255年間もの長きに渡って、この貴重な宝物を守り続けて来た建物なのです。
「正倉院」正倉は、正面約33m、奥行約9m、三倉全体に寄棟本瓦葺きの大屋根をかけています。
床の高さが約2.5mで、床下を人が楽に歩けるほど床は高く作られています。
東西4列、南北10行に束柱(つかばしら)を立て、南北両端の4列4行で3間四方の校倉を組み上げて「南倉」と「北倉」としています。
それらの間は、それぞれの端に添えて角柱(すみばしら)を立てて、前後に厚板をはめ重ねて板倉(いたくら)とした「中倉」です。
「正倉院」には、三角形の校木(あぜぎ)を横に井桁状に重ね合わせ、隅部で材を互いに組み合わせて壁を構成する「校倉造り」の技法が用いられていることで知られています。
「校倉造り」の利点として、従来から「湿気の多い季節には材木が膨張して湿気の侵入を防ぎ、乾燥期には逆に通気をよくする」ことが指摘されて来ました。

< 校倉部分 >
しかし、荷重の大きい「校木(あぜぎ)」の合わせ目にそのような余裕はないのです。それどころか、「正倉院」正倉の壁面をよく観察すると、校倉部材の所々に詰め物が施されているのがわかります。つまり、隙間が生じて来ているわけです。
そのためか「正倉院」正倉内の温湿度の実測結果によると、外気の影響が大き く、必ずしも気密性は良くないのです。
これに対し、最近、宮崎県の南郷村に平成の正倉院として校倉造の建物が建てられ、その内部の温湿度が測定されていますが、その結果は極めて気密性に富んでいて、年間を通じて温湿度は外気に関係無くほぼ一定に保たれているのです。
このように、同じ「校倉造り」でも両者の温湿度の測定結果は大きく異なっていることになります。いったい何故なのでしょうか?
木材は湿気を吸うと膨張し、乾燥すると収縮します。このように湿気を吸ったり吐いたりする現象を見て 、木材はいつまでも生きていると表現する人もいますが、その度に木材は膨張、収縮を繰り返しているわけです。
三寒四温といわれるように、一週間に1回乾湿が繰り返されるとすると、1年で52回膨張、収縮が 繰り返されることになります。
1000年で52000回ということになりますが、一体何回膨張、収縮が繰り返されたら木材と木材の間に隙間が生じるのでしょうか。
実は、平成の正倉院(南郷村)と「正倉院」正倉(東大寺)の気密性の違いは、「正倉院」正倉があまりにも古くなりすぎ、建築当初は高か った気密性が、年代を経るとともに大きくなる隙間によって失われたのではないかと考えられています。
いった い何年経てば気密性が失われるのか、100年か、200年か、あるいは数百年か、興味の尽きないところですが、その追跡調査は南郷村の校倉造りの今後の経過に期待するしかありません。
この点がロマンを感じさせますよねぇ。
いずれにしても、「校倉造り」で千年以上も気密性を保たせることには自ずから限界のあることを「正倉院」正倉は示しています。
なお、「正倉院」正倉の宝物は無垢の杉の箱の中に収められていて、その中の湿度は年間を通じほぼ一定であることが確かめられています。
つまり、こうして宝物は「校倉造り」という特殊な工法と宝物を納める無垢の杉の「唐櫃(からびつ)」の二重の鎧によって、守られて来たのです。
「正倉院」に保管されてきた宝物、つまり聖武天皇遺愛の品々は、文具、仏具、楽器、装身具から薬品に至るまで多岐にわたります。
しかも、保存状態は極めて良好です。
中でも、「鳥毛立女屏風(とりげだちおんなびょうぶ)」や「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)」をはじめ、瑠璃と呼ばれたガラス器、精巧な寄木細工、唐三彩(からさんさい)や白磁の陶磁器、瓶や杯の金工品などが名高いのです。

< 金銀平脱皮箱 >

< 青斑石硯 >
それらの中には、遠くは東ローマをはじめ、西アジア、ペルシャ、インド、近くは中国(唐)や朝鮮から伝来したものが少なくありません。
これは、遣唐使によって、唐から日本へもたらされたとされるわけです。
当時の中国は、シルクロードを通じて世界各地と交易し、国際色豊かな文化を作り上げていたからです。
日本は、いわばシルクロードの終着地点であったと言ってもよいでしょう。
正倉院の宝物は、聖武天皇の治世に花開いた天平文化のみならず、当時の世界文化を知る上で極めて貴重な資料なのです。
正倉院が、【世界の宝庫】と言われる所以です。
ちなみに、これらの宝物は、現在では空調装置の効いた鉄筋コンクリート造の新宝庫に大事に保管されています。
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日本中の建築物の中から「おっ!これはっ!」というモノを紹介する建築探訪の第六回目は、 奈良の東大寺(とうだいじ)の「正倉院(しょうそういん)」を取り上げてみたいと思います。
< 1255年間、宝物を守り続けた「正倉院」 >
「正倉院」は、聖武天皇の遺愛品を収蔵する建物であり、「校倉造り(あぜくらづくり)」の構造が、高温多湿の日本の気候から遺愛品を守って来たとされて来ました。
しかし、近年それを覆す説が有力になっていることをあなたはご存知でしたか?
それについては後述しますね。
さて、奈良時代の寺院の多くは、寺宝を保管しておく多くの「正倉(しょうそう)」を持っており、幾棟かの正倉の集まる一郭を「正倉院」と呼びました。
しかし、今や奈良の東大寺の「正倉院」しか現存せず、正倉院と言えばこの東大寺の「正倉院」を指すというように、固有名詞化しているのです。

< 東大寺 正倉院 外観 >
現存の「正倉院」は、東大寺仏殿の北西にあり、敷地のほぼ中央の南北に三倉一棟式の正倉が建っています。
日本で造られた最大の木造倉庫建築です。
正倉が東大寺にだけ現存するのは、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛品を東大寺に献納し、天皇の勅命によって封印して、みだりに開閉することを許さなかったからです。
なお、当初は勅命されたのは北倉だけで、三倉とも勅封倉となったのは明治時代になってからだと伝えられています。
「正倉院」の建築年代は明らかではないのですが、聖武天皇遺愛品が献納された756年ころと考えられています。
つまり、1255年間もの長きに渡って、この貴重な宝物を守り続けて来た建物なのです。
「正倉院」正倉は、正面約33m、奥行約9m、三倉全体に寄棟本瓦葺きの大屋根をかけています。
床の高さが約2.5mで、床下を人が楽に歩けるほど床は高く作られています。
東西4列、南北10行に束柱(つかばしら)を立て、南北両端の4列4行で3間四方の校倉を組み上げて「南倉」と「北倉」としています。
それらの間は、それぞれの端に添えて角柱(すみばしら)を立てて、前後に厚板をはめ重ねて板倉(いたくら)とした「中倉」です。
「正倉院」には、三角形の校木(あぜぎ)を横に井桁状に重ね合わせ、隅部で材を互いに組み合わせて壁を構成する「校倉造り」の技法が用いられていることで知られています。
「校倉造り」の利点として、従来から「湿気の多い季節には材木が膨張して湿気の侵入を防ぎ、乾燥期には逆に通気をよくする」ことが指摘されて来ました。

< 校倉部分 >
しかし、荷重の大きい「校木(あぜぎ)」の合わせ目にそのような余裕はないのです。それどころか、「正倉院」正倉の壁面をよく観察すると、校倉部材の所々に詰め物が施されているのがわかります。つまり、隙間が生じて来ているわけです。
そのためか「正倉院」正倉内の温湿度の実測結果によると、外気の影響が大き く、必ずしも気密性は良くないのです。
これに対し、最近、宮崎県の南郷村に平成の正倉院として校倉造の建物が建てられ、その内部の温湿度が測定されていますが、その結果は極めて気密性に富んでいて、年間を通じて温湿度は外気に関係無くほぼ一定に保たれているのです。
このように、同じ「校倉造り」でも両者の温湿度の測定結果は大きく異なっていることになります。いったい何故なのでしょうか?
木材は湿気を吸うと膨張し、乾燥すると収縮します。このように湿気を吸ったり吐いたりする現象を見て 、木材はいつまでも生きていると表現する人もいますが、その度に木材は膨張、収縮を繰り返しているわけです。
三寒四温といわれるように、一週間に1回乾湿が繰り返されるとすると、1年で52回膨張、収縮が 繰り返されることになります。
1000年で52000回ということになりますが、一体何回膨張、収縮が繰り返されたら木材と木材の間に隙間が生じるのでしょうか。
実は、平成の正倉院(南郷村)と「正倉院」正倉(東大寺)の気密性の違いは、「正倉院」正倉があまりにも古くなりすぎ、建築当初は高か った気密性が、年代を経るとともに大きくなる隙間によって失われたのではないかと考えられています。
いった い何年経てば気密性が失われるのか、100年か、200年か、あるいは数百年か、興味の尽きないところですが、その追跡調査は南郷村の校倉造りの今後の経過に期待するしかありません。
この点がロマンを感じさせますよねぇ。
いずれにしても、「校倉造り」で千年以上も気密性を保たせることには自ずから限界のあることを「正倉院」正倉は示しています。
なお、「正倉院」正倉の宝物は無垢の杉の箱の中に収められていて、その中の湿度は年間を通じほぼ一定であることが確かめられています。
つまり、こうして宝物は「校倉造り」という特殊な工法と宝物を納める無垢の杉の「唐櫃(からびつ)」の二重の鎧によって、守られて来たのです。
「正倉院」に保管されてきた宝物、つまり聖武天皇遺愛の品々は、文具、仏具、楽器、装身具から薬品に至るまで多岐にわたります。
しかも、保存状態は極めて良好です。
中でも、「鳥毛立女屏風(とりげだちおんなびょうぶ)」や「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)」をはじめ、瑠璃と呼ばれたガラス器、精巧な寄木細工、唐三彩(からさんさい)や白磁の陶磁器、瓶や杯の金工品などが名高いのです。

< 金銀平脱皮箱 >

< 青斑石硯 >
それらの中には、遠くは東ローマをはじめ、西アジア、ペルシャ、インド、近くは中国(唐)や朝鮮から伝来したものが少なくありません。
これは、遣唐使によって、唐から日本へもたらされたとされるわけです。
当時の中国は、シルクロードを通じて世界各地と交易し、国際色豊かな文化を作り上げていたからです。
日本は、いわばシルクロードの終着地点であったと言ってもよいでしょう。
正倉院の宝物は、聖武天皇の治世に花開いた天平文化のみならず、当時の世界文化を知る上で極めて貴重な資料なのです。
正倉院が、【世界の宝庫】と言われる所以です。
ちなみに、これらの宝物は、現在では空調装置の効いた鉄筋コンクリート造の新宝庫に大事に保管されています。
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Posted by スタッフブログ『ひのき同好会』 at 17:07│Comments(0)
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